ウォーレン・バフェットから学びたい!

ビリオネアのウォーレン・バフェットから投資を学ぼう

ウォーレン・バフェットから学びたい!

ランチをする権利を獲得するために、オークションで億の金額がつくほど超大物投資家のウォーレン・バフェットは驚異の年平均リターンを誇ります。長者番付でマイクロソフトのビル・ゲイツが1位でバフェットが2位になることが多かったのですが、バフェットは株式投資で長者番付に乗るまでになりました。オークションでランチをバフェットさんと一緒にとれる権利ですが、落札された金額はすべてサンフランシスコの貧困問題に取り組んでいる慈善団体のクライド財団に贈られます。

株式投資で投資資本を6兆円という年平均にすると、22.6パーセントの運用をしたバフェットさんとランチで株の話をしたい~!と思われるかもしれませんが、関心を寄せる話題についてバフェットさんと意見交換をすることはできますが、株の話は出来ません!2008年のランチで、中国人投資家がある株式を推薦したところ、株価が変動するということがあったからです。それにしても、とてもじゃないですがとんでもない長者のバフェットさんはどんな方なのでしょう~?!

オマハの賢人

ウォーレン・バフェットさんが住んでいるのはニューヨークでもなければ、金融街でもありません。バフェットさんの地元オマハを中心した生活を送っているので人々は敬愛の念をこめて「Oracle of Omaha」つまりオマハの賢人と呼んでいます。地元のオマハで豪華な家に住んでいるのかと思えば、そんなこともなく1958年に31,500ドルで購入した郊外の住宅に今も暮らしています。

バフェットさんは世界最大の投資持株会社バークシャー・ハサウェイの筆頭株主でもあり、会長兼CEOを務めています。もちろんバークシャー・ハサウェイの本社もネブラスカ州オマハに置かれていますが、こちらの投資会社の運用成績がこれまたすごく、複利計算で約20パーセントのリターンを40年以上に渡って出し続けています。そしてバークシャー・ハサウェイの株主総会では、バフェットさんと副会長のチャーリー・マンガーさんの話を聞くために、世界中から数万人の株主が株主総会に足を運びます。


バフェットさんの生い立ち

1930年8月30日にネブラスカ州オマハでハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に誕生しました。まだ本当に幼い頃からビジネスが近くになった生活を送っていたようです。例えば祖父からコーラを6本25セントで購入したものを、1本ずつにして5セントで売ったり、ゴルフ場のボール拾いやワシントン・ポスト(新聞)配達のアルバイトをしたり、、競馬の予想新聞売りなどを行っていました。

初めてバフェットさんが初めて株式を購入したのは、なんと11歳の時のことです。このあたりが日本より断然アメリカらしいのですが、バフェットさんのお姉さんのドリスさんと一緒にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入しました。ところが、優先株は1株27ドルまで下落してしまいました。そしてバフェットとドリル姉さんは1株40ドルまで値を戻したところで売却していますが、そのごシティ・サービス株は長期的には200ドルまで株価は上がりました。27ドルで買った株をそのまま保有していれば・・という経験から、バフェットさんは忍耐を学んだということを後に語っています。

バフェットさんのお父さんは証券会社を営んでいましたが、1942年に下院議員に当選したため一家はワシントンD.C.に引っ越しをしましたが、12歳のバフェット少年は引越しした新しい生活になじめませんでした。そのため祖父の家からオマハの学校に中学2年生まで通うことになりました。そして初めての所得税申告は引越しをした翌年です。1943年に経費として申告したのは自転車を仕事の経費として控除して所得税を申告しています。中学校では飛び級をしていますが、一つ年上の友達たちとはうまくなじむことはできませんでした。そして成績の方もイマイチ芳しくはありませんでしたが、日々の新聞配達は継続していました。

バフェット少年は中学校を卒業してオハマからワシントンD.C.へと戻ってワシントンで高校に進学しています。高校3年生のときには、友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入して、購入したピンボールを理容店に置くという商売を始めましたが、この商売は成功しました。そして最終的にこの商売で週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになりました。その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却しています。

1947年に大学へ進学しましたが、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したものの中退して、ネブラスカ大学リンカーン校へ編入してネブラスカ大学を卒業しています。卒業した後にハーバード大学ビジネス・スクールに入学しようしましたが、こちらは断られました。コロンビア大学に著名な証券アナリストで、『賢明なる投資家』の著者でもあるベンジャミン・グレアムとデイビッド・ドッドがコロンビア大学の教職についていることを知ったことから、コロンビア大学のビジネススクールに進学して、そこで投資について学んでいます。

ベンジャミン・グレアムが保険会社GEICOの重役に就いていていることを知ったことから、早速電車に乗ってGEICOの本社があるワシントンD.C.へ向かいました。GEICOの本社では門前払いをされそうになりましたが、なんとか本社の中に入れてくれるまでドアを叩き続けたといいます。GEICOの本社でバフェットはそ当時の副社長で、そして後に友人となりバフェットさんも影響を受けた人にも出会うことになりました。

1951年にコロンビア大学ビジネススクール大学院で修士号を取得した後に、バフェットさんはウォール街で働こうしましたがバフェットさんのお父さんとベンジャンミン・グレアムに反対されてしまいました。バフェットさんは、なんとしても師と仰ぐグレアムの下で無料でもいいから働きたいと懇願しますが、グレアムさんはユダヤ人の就職が困難という社会的な事業もあり、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたい事情からグラマムの元で働くという願いは叶いませんでした。

バフェットさんは自身の故郷のオマハへ帰り、父親の証券会社で株式ブローカーとして働きました。そして働きながら人前で話をする訓練を受けるために、デール・カーネギー演説コースを受講しています。学んだ知識を使ってネブラスカ大学の夜間クラスで、受講生の平均年齢がバフェットさんの2倍以上の受講生に"投資原理"を教えていました。そしてこの頃に後に妻となるスーザン・トンプソンさんとデートをするようになりました。

家族

1952年にスーザン・トンプソンと結婚していますが、婚約した時には自分の資産の6%の価値の婚約指輪として贈っています。結婚した翌年1953年に長女のスーザン・アリスをもうけて、翌年には2人目の子供のハワードが誕生しています。そして次男となるピーターもうけています。

1977年に子育てを終わったことから妻のスーザンは別れて暮らすようになりました。離婚はしないで別々に暮らすという自由な生き方をバフェットさんも支持していました。そのため別れて暮らしてはいても、バフェット自身が亡くなった時には、バフェットの遺産を妻スーザンが受け継ぐことになっていましたが、スーザンは2004年に亡くなったため遺産は複数の財団へ寄付することになりました。妻スーザンと1977年から別れて暮らしていましたが、妻から紹介されたアストリッド・メンクスという女性と翌年1978年から同居しています。そして妻スーザンが2004年に亡くなったため、2006年自分の誕生日に長年一緒に暮らしているアストリッド・メンクスと再婚しました。結婚式の進行役を務めたのは長女のスーザンです。

成長した子ども達ですが、子ども達を甘やかすことは本人のためにはならないとして、厳しく育てて早々と自立させています。長男のハワードはバークシャーの役員を務めて、次男のピーターは作曲家になり映画などにも楽曲を提供しています。

バフェットさん自身の兄妹は3人兄妹で初めての株を一緒に買った、姉のドリスとそして妹のバーティーがいます。父親のハワードは証券業を営んでいましたが、1930年から共和党の下院議員を務めています。祖父はオマハに食料雑貨店を持っていて、バークシャー・ハサウェイの現副会長のチャーリー・マンガーは、祖父が持ってる雑貨店で働いていたことがありますが、この間にはまだチャーリー・マンガーとバフェットさんは出会うことはありませんでした。

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