バフェット氏のパートナーシップの運営

ビリオネアのウォーレン・バフェットから投資を学ぼう

バフェット氏のパートナーシップの運営

バークシャー・ハサウェイの事業は「保険・再保険事業部門」「公益事業・エネルギー事業部門」が主要な事業部門になっていますが、保険ではない事業も展開しています。たとえば、1965年にウォーレン・バフェットは1965年に繊維業の経営権を取得していますが、ウォーレン・バフェットはどのようにして現在世界最大規模の投資会社となるバークシャー・ハサウェイを率いるようになったのでしょうか。コロンビア大学院で卒業後、父親の経営する証券会社で株式ブローカーとして働いていたバフェットの元に師と仰いだグレアムからパートナーシップでの仕事の誘いがあったからです。

いよいよ投資家へ・・

1854年にバフェットの師匠でもありプロフェショナルの投資家でもあるベンジャミン・グレアムから、パートナーシップでの仕事の誘いがありました。バフェットさんは資産運用会社グレアム・ニューマンに証券アナリストとして入社しましたが、このときの初任給は年間12,000ドルでした。グレアム・ニューマンでは、後に著名な投資家として有名になるウォルター・シュロスと共に働いていました。

師匠のグレアムは2年後の1956年に引退したため、会社は解散しましたがコロンビア大学で唯一グレアムがA+をバフェットに与えただけあり、グレアムはバフェットをとても高く評価していました。

パートナーシップの運営が始まる

大学を卒業してから証券会社で株式ブローカーとして勤務したり、また資産運用会社で働きグレ舞うの貯金は9,800ドルから140,000ドル以上に増えていました。そこでバフェットさんは故郷のネブラスカ州オハマへ戻り、合計105,000ドルを7人の家族とバフェットの友人から集めて投資のパートナーシップの「バフェット・アソシエイツ株式会社」を設立しました。バフェット自身は100ドルだけを出資しました。そしてこの後に、年内に2つのパートナーシップをつくって、パートナーシップは全部で3つになりました。

そして、1957年にはさらに追加で2つのパートナーシップをつくったため、全部で合計5つのパートナーシップを運営しました。パートナーシップの運営をバフェット氏が行っていたのは自宅で、奥さんのスーザンが第3子となる次男ピーターを妊娠していたこともあったため、同じ年の1957年にファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入しました。そしてこの31,500ドルで購入した自宅に、今でもバフェットさんは暮らしています。

1959年にチャーリー・マンガーと出会います。ご存知の通りバークシャーの副会長になる人物ですが、出会ってすぐに2人は意気投合して、チャーリー・マンガーは会社の成功の要になりまりす。1960年にパートナーになる1人の医師に10,000ドルを投資する気持ちがある10人の医師を見つけてきてほしいと頼みますが、その医師から11人を紹介してもらいます。そしてこの11名の中には現在まで投資している家族がいます。その当時投資した本人は亡くなっていますが、遺族が相続していますがその当時に投資した1万ドルがどれぐらにになっているかというと、今ではあんと5億ドル!!!にもなっています。1961年にパートナーシップの資産が、数百万ドルを突破したため、風車を製造している会社に対して初めて100万ドル規模の投資をしています。

バフェットさんは更なる資金を集めるために、1962年にニューヨークへ出かけて古い友人から数十万ドルの資金を集めたことで、パートナーシップの資産が720万ドルになりました。多数あったファンドをまとめて「バフェット・パートナーシップ」として、最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルへと大幅に増やしています。そして運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザに移します。このときに、バフェット夫婦はそれぞれが100万ドル以上の資産を保有していました。

繊維業を営んでいる「バークシャー」が1株あたり8ドル未満で売られていたため、「バークシャー」の経営を改善すれば必ずや業績が好転すると考えたバフェットさんは、最終的にパートナーシップを通じて「バークシャー」全株式の49%まで買い進めていきます。パートナーのチャーリー・マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきどうかと相談すると、マンガーの答えはハリー・ボトルのほうが良いということで、このアドバイスに従って、ハリー・ボトルに投資します。そして一時解雇を行い、コスト削減といった経営改善策を会社に実現させて、大きな利益を生み出しました。

そしての株を買い進めていた1963年に遂に「バークシャー」の筆頭株主になりました。デンプスターを購入した時の3倍の株価で売却しています。ポートフォリオは、ほとんど価値のない企業で構成していましたがそれは実に200万ドル以上の価値を持っていました。そして翌年1964年に、アメリカン・エキスプレスが倒産の危機がある子会社に対して法的義務のない状態で資金を融通しようとしたスキャンダルによって、アメリカン・エキスプレスの株価が暴落したときに、このスキャンダルは解決可能な問題だと判断したバフェットさんは、アメリカン・エキスプレスの株を逆に買っていきました。

1965年にウォルト・ディズニーに出会ったことで、ウォルト・ディズニー株を買い始めていきます。当時の株価は、1株38セントでしたが当時の時価総額の5%にあたる400万ドルをウォルト・ディズニー株に投資しました。1株48セントになったときにウォルト・ディズニーの株を売却していますが、この株は後に買い戻すことになります。そして48セントの時に売却したことについて、失敗したことだと認めています。

1967年にはバフェットのパートナーシップの資産は6500万ドルになりました。この年に初めてパートナーシップに10セントの配当を出しています。そして2年後の1969にパートナーシップの解散を行いました。パートナー達は現金もしくはバークシャーの株式といった幾つかの方式を選ぶことができました。


ブルーチップ・スタンプス

ブルーチップ・スタンプは日本でも一時期切手のようなスタンプを買い物したときにもらって、それを台紙に貼ってスタンプを集めて景品をもらうというシステムで小売店などでよくありましたが、元々はアメリカが始まりで1956年に9つの会社によって設立されました。アメリカのブルーチップ・スタンプも同じで、小売店の販売促進のため景品スタンプ事業を9社によって行っていましたが、設立した9社にでの独占に対して小売店から反トラスト法違反で訴えられたため、1967年にブルーチップ・スタンプスに改名して株式の55%は市場に流通するようになりました。

市場に流通したブルーチップス・スタンプスの株が割安だと判断したバフェットさんはもちろん株を購入します。そして情報交換していた友人のチャーリー・マンガーもリック・ゲーリンもそれぞれ別個にブルーチップ・スタンプスの株を購入していました。

1971年の時点でバフェット家が13%、マンガーのパートナーシップが8%、ゲーリンのパートナーシップが5%の株を保有していました。更にバフェットが部分的に所有しているバークシャーが17%、ダイバーシファイド・リテーリングが16%のブルーチップ株を保有して、ダイバーシファイド・リテーリングはバークシャーの株を持って、マンガーのパートナーシップはダイバーシファイド・リテーリングの株を保有していました。その後にも買い増しがあり、結果的に合計75%のブルーチップ株をバフェットさんたちが所有することになりました。

複雑な株主構成

ブルーチップの取締役に、マンガー、ゲーリン、バフェットの3名は就任して景品事業によって生まれる準備金の運用を行いました。そして1972年に製菓業のシーズ・キャンディーを帳簿価格の約3倍の価格で買収して子会社にしました。そして更に貯蓄貸付組合のウェスコ・フィナンシャルの株8%を1株10ドル台前半で購入しました。

1973年にウェスコがフィナンシャル・コープと合併する計画が発表されると、バフェットたちはウェスコの株主に不利な条件の合併に反対するため、17%まで買い増しを行っていきました。20%以上取得するには許可を受けるという規制があったため、創業家でもあり大株主のピータース家をバフェットたちは説得して、なんとか合併を撤回させました。合併計画によって1株17ドルまで上昇していたウェスコ株は合併の中止によって株価が下落することが想定されましたが、バフェットたちは他の株主へ公正さを保つため残りの3%を17ドルで購入しました。株式取得に関する許可を得ると、公開買付けなどによって最終的に80%を保有することになりました。

証券取引委員会(SEC)は、ブルーチップを通じてウェスコ株の取得を中心したバフェットたちの投資活動の調査を行いました。そしてブルーチップの株がかなり複雑な形で保有されていたこともあったため、証券取引委員会ではバフェットたちに何らかの不正を行っているのではないか?!という疑惑を持っていました。

最終的に判断されたのは、ウェスコの合併中止した後も株を高値で買ったことが株価を操作したと判断されたため、問題になりました。バフェットたちは、このような同じような過ちを今後は一切行わないことを明言しました。そして証券取引委員会から1975年に、ブルーチップからウェスコの株主へ11万5000ドルの支払いを命じられました。

この件の影響で、バフェットたちは組織の簡略化に取り組むことになりました。マンガーのパートナーシップは、1974年の暴落から回復した1975年に解散したため、チャールズ・マンガーはバークシャーの副会長に就任しました。ダイバーシファイド・リテーリングは、バークシャーに吸収されました。そしてブルーチップも1983年にバークシャーと株式交換によって合併したため、複雑な株主構成は解消されることになりました。

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